後日乗

ごにちじゃう Life After Tuck in Tokyo

米国Dartmouth College, Tuck SchoolでMBAを取る過程を
365日x2年余すところなく記した「ダートマス日乗」
帰国後 東京における日々を「後日乗」として 再び記す
(副題としてはあまりに長い)
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終末期医療と尊厳死
 麻生太郎の「失言」が話題になっている。
発言直後から各メディアからの批判が多く、「個人の人生観を述べただけ」と発言を撤回するにいたった。

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やっぱり現実問題として、今経費をどこで節減していくかと言えば、もう答えなんぞ多く(の方)が知っておられるわけで。高額医療というものをかけてその後、残存生命期間が何カ月だと、それに掛ける金が月一千何百万(円)だ、1500万(円)だっていうような現実を厚生(労働)省が一番よく知っているはずですよ。
チューブの人間だって、私は遺書を書いて「そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから」と渡してあるが、そういうことができないと、あれ死にませんもんね、なかなか。死にたい時に、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは。いいかげんに死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。しかも、その金が政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。ちょっとさっさと死ねるようにしてもらわないと、いろんなこと考えないと、これ一つの話だけじゃなくて、総合的なことを考えないと、この種の話って解決がないんだと僕はそう思っているんです。
(2013/01/21-19:27)
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批判を受け、撤回をするにいたった発言ではあるが、個人的には麻生太郎の発言は間違ったことは述べていないと感じる。


私の父は、2004年10月にゴルフ場で脳出血で倒れそのまま病院に運ばれた。
救急病院の医師からは、
「出血による脳の損傷がひどく、手術をしても助かる可能性は低い」
「仮に助かったとしても植物状態になる可能性も高い」
と言われたが、結局我々家族は開頭手術を選んだ。

いくつかの小さな紆余曲折はあったものの、結局そのまま2011年1月に亡くなるまで6年3ヶ月の長きにわたり、ずっと植物状態のままだった。

手術後は胃から直接栄養を摂取する「胃ろう」のチューブを腹に入れ、自らの意思で体を動かすこともできず、深刻な床ずれを患い、そして亡くなった。

母は6年3ヶ月の間、ごくわずかな例外の日以外は毎日毎日雨の日も雪の日も自転車に乗って往復15キロの道を見舞いに通いつづけた。
植物状態の患者を見舞うという行為がどういうものであるかについてはある程度は想像していただけると思う。

我々家族の前には、急性期の「助かっても植物状態になる可能性がある」という医師からの警告があったし、当然その際には「手術をしない」という選択肢が提示されていた。
しかし、我々は手術をする方を選んだ。
そして警告どおり植物状態になった。

つい先ほどまで元気だった肉親に対して、死を結論づける「手術をしない」という意思決定を自ら行うという行為は、その時にあまりにも遠く思えた。その決断から逃げた、あるいは先延ばししたのだ。

その後、家族をずっと苦しめつづけたのは、
元気だったころの父が
「チューブにつながれてまで生きていたくない」
という希望を述べていたという事実と、
そのチューブにつながれて生きる状態を生む意思決定を自らがしてしまったという事実だった。

医師は、我々家族に、
「もう治ることはないから。でも安楽死はできないから、誤嚥性肺炎で死ぬのを待つしかないんだよね」
という信じがたい言葉を述べ、そしてその予告は6年3ヶ月の時間を経て現実になった。

母は毎日の見舞いの帰りに、自転車で救いや希望なき夕暮れの道を走りながら、天を見上げて
「どうかもうそっちに主人を連れて行ってください」
「早くあの人を楽にしてあげてください」
と何度も何度も泣きながら亡くなった祖母(父の母)に頼みつづけたという。

それでも、父はその「生前」の意思に反してずっと長い間生き続けた。

倒れた後の父の意思が、元気だったころの意思と同じであるかどうかは誰にも分からない。

仮に尊厳死という制度があったとしたら、父が植物状態になった後に我々家族がそれを選んだかどうかも、究極的には分からない。(おそらくありとあらゆる手段を経たあと、どこかのタイミングで検討し、そして決定したと思うけれど、それはすべて仮定でしかない)


麻生太郎の発言に感じることは人それぞれであろうと思うし、間違いなく絶対の正解などは
あり得ない。

ただ、長い時間を経てからからに乾燥させて守っていた己が感情に一滴の水分が落ちたように感情が動かされたことだけは事実であるし、それがネガティブな感情ではなかったことだけはここに書いておきたい。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 01:45 | comments(0) | trackbacks(1) |
父との別れ

亡くなった父の通夜を1月31日(月)に、告別式を2月1日(火)に行いました。

1月29日(土)の未明に亡くなったので、時間は十分にあるはずでしたが、すべてはあっという間に過ぎていきました。

高速のベルトコンベアに乗ったかのようでした。


父は2004年10月15日の未明に、
「最高のゴルフ日和だ」
「じゃあ、行ってくるよ」
という言葉を残して栃木県のゴルフ場へ向かい、それから一時間ほど後にゴルフ場のフロントで倒れました。
脳出血(視床出血)でした。

当初は、フロントに自ら「救急車を呼んで欲しい」と依頼し、駆けつけた救急隊員にも服用中の薬を自ら説明していたそうなので、軽い出血だったものと思われます。

運が悪かったのは、従来より不整脈の持病があった父は血栓ができにくいようにワーファリンという薬(血液が凝固しにくい薬)を服用していたことです。
血液が凝固しにくいということは、一旦起きた出血がなかなか止まらないということを意味します。

栃木県の病院に運ばれてから、まずはワーファリンの効き目を抑える薬を投与し、それから開頭手術を受けましたが、病状はなかなか回復しませんでした。

途中、手を振る程度までは回復したようにも見えた病状も、二度目の「脳室腹腔シャント術」の手術を受けて以降は、さらに悪化し、以後、手足をピクリと動かすことも、もちろん言葉を発することもできないまま、6年3カ月間の闘病生活を送ることになりました。


6年3カ月の間に、世の中も、家族も大きく変わりました。

下の息子は父が倒れる40日ほど前に生まれましたが、もう数ヵ月後には小学校に入学します。

息子を見ると、6年という歳月の長さを思います。



6年以上、一言も発せず、ピクリとも動けずに、ベッドの上にただ横たわってきた父の思いを想像すると、言葉が出てきません。

生前は、ひときわユーモラスで、ロジカルで、活動的で、常にどうやって孫たちを楽しませるか、のアイデアを考えているような父であっただけに、なおさらです。

当ブログにても何度か触れていましたが、医学的には、初手から「勝ち目のない」戦いだったのかもしれません。勝ち目のない戦いに、皆で突っ込んでいったのかもしれません。いくつかの手術の意思決定をした立場として、私こそ父を長い苦しみに引きずり込んだ張本人なのかもしれません。

そのことへの痛みはおそらくずっと消えませんが、父は厳しく長い戦いを、良く戦い抜いたと思います。「よく戦えり」と心から思います。

とにかく今は「御苦労さまでした。ゆっくり休んでください」という言葉しかありません。



また、6年以上、ほぼ毎日病院に見舞いに行きつづてきた母の苦労を思うと、これもまた言葉にできないものがあります。

片道7〜8キロ。一日往復15キロ。
母は、年間5000キロ以上、累計3万キロ以上も自転車で走ってきました。
自転車のタイヤはあっという間につるつるに摩耗してしまいました。

行き帰りに涙が止まらずに、帽子を目深にかぶって走ったことや、「早く天国につれていって、お父さんを楽にしてあげてください」と、亡くなった祖母に声に出して頼みながら走ったということも、今回初めて聞きました。



告別式後の挨拶では、6年間の父の無念や、母の哀しみを思い、言葉に詰まり、嗚咽してしまいました。

もう少し、気のきいたことを言うつもりで頭の中で考えていたのに、父は、いい年して情けない息子だと思ったことでしょう。




通夜と告別式には、多くの方にご会葬いただき、また多数のメッセージもいただき、ありがとうございました。

あらためて御礼申し上げます。


別れは悲しいものではありますが、多くの方に支えられていることを実感する場でもありました。

別の方が同じような立場になれば、また同じように支えたいと自然と考える機会でもありました。



通夜の中で、

「朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり」

という蓮如上人の言葉がありました。


ついこの間まで温かいからだをしていた者が、わずかな時間で白骨となってしまう。

死は、今日を生きている我々の誰もが、等しく避けえない運命ですが、それが10年後に訪れるのか、1年後に訪れるのか、明日訪れるのかは、誰にもわかりません。

分からないが故に、死を茫漠ととらえるのではなく、
分からないが故に、死を確たるものとして捉えていきたいと思います。

今日の夕にも白骨となれる身として、毎日を生きていきたいと思います。



あらためて、ご厚情に感謝申し上げます。



父の長い闘病に、敬意を表して。




火葬場での会食時の蔭膳。

| 橋口寛 | 看病日誌 | 21:30 | comments(1) | trackbacks(2) |
右脳とユーフォリア
 先日、半日時間ができたので、埼玉県の実家に行った。

往復4時間強かけて、実家に滞在したのは30分ほど。

お茶をいただきながら、母と近況を話し、
父の病状について話をする。


そこで、母がずいぶん前に切り取っていたという産経新聞の切り抜きを見せてくれた。


父が脳出血で倒れてからすでに4年半。
急性期の頃の希望はすでに持っていないけれど、
時々新聞で目にする脳についての記事は切り取っている。


母が見せてくれたのは、自ら脳卒中の発作に襲われて、左脳の機能を破損した脳科学者ジル・テイラー博士についての記事だ。

Dr. Jill Bolte Taylor ジル・テイラー博士:
神経解剖学者。ある朝、脳卒中の発作に襲われる。発作中自分が体験していることが、脳科学者として最高の研究材料であることを認識、脳機能が運動、スピーチ、記憶、自己認識...と、ひとつひとつシャット・ダウンしていく過程を観察した。その後無事生還し、リハビリを乗り越え、発作から8年後に社会復帰。以来、脳卒中や脳の損傷からの回復のためのスポークスマンとなる。脳卒中の発作は彼女の左脳を破損したが、同時に右脳からの創造的なエネルギーの激流を引き起こした。現在は、インディアナの自宅から、ハーバード・ブレイン・バンクを代表して全米を駆け回る。内部から自分の脳を研究するというチャンスを得た脳科学者。ウエブサイト:http://drjilltaylor.com/

博士の著作の翻訳者でもある、サイエンス・ライター竹内薫さんが書いている当該記事の内容を少し引用する。

 脳には個人差があるが、テイラー博士の場合、言語を司(つかさど)る中枢は左脳にあり、そこが侵されたために言葉がしゃべれなくなり、他人の言葉も聞き分けるのが困難になった。友人の言葉は犬の鳴き声みたいに聞こえたという
(中略)
 左脳の機能が低下し、右脳の機能が目立つようになると、何が変わるのだろう? テイラー博士が挙げている例は実に興味深い。言語機能が失われ、物事を論理的に筋道だって考えることができなくなる。他人の言っていることが理解できない。身体の境界がわからなくなり、周囲と渾然(こんぜん)一体となり、まるで「流れる」ような感覚に陥る。つまり、空間の感覚が消えてしまう。また、過去・現在・未来という直線的な時間もなくなり、あるのは「今」だけ。
 しかし、絵(映像)を思い浮かべて考えることはできるし、しゃべっている人の顔の表情で、その人の気持ちはわかるという。また、宇宙と一体化し、とてつもない幸福感に浸れるそうだ。
(産経新聞 2008年10月11日朝刊より)



左脳が破壊されたことで、言語能力や論理性をもって抑えられていたものが解き放たれた、ということだろうか。

より、直観的になり、
直線的な時間はなくなり、
肉体の境界をもって隔てられていた外部と同一化し、
言語を介さずに相手の気持ちがわかるようになる・・・。


すべての人の右脳がそのような役割となっているのかはわからないが、少なくともテイラー博士の場合は、そうであった。
専門の脳科学者が経験したことであるがゆえに、とても説得力がある。



父の脳は左脳が破壊されているが、右脳は左脳に比べてまだ機能が残っている。
テイラー博士の表現するような幸福感をもしも感じているとしたら、本当に素晴らしいことだ。


自分自身にとっても、本来感じられえる能力を、普段は身体性や論理性をもって抑制されているものを、少しでも解放することができたら、と思う記事だった。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 17:26 | comments(1) | trackbacks(1) |
埼玉の病院へ
広島原爆忌の今日。

竹橋のオフィスへ向かう途中、急遽行き先を変更し、
そのまま直通列車にのって埼玉県幸手市の父の病院へ。

二時間列車に揺られ、駅からタクシーで向かった病院の、
いつものベッドの上に、父。

眠っていたけれど、声をかけると、目を覚まし、
僕を見て、怒ったような顔で何か声を発した。

なぜだか、怒られているような、気がした。


ひげを剃り、
腕をマッサージして、
少し話しかける。

相変わらず、同室の患者の耳が気になって、
あまりうまく話しかけられない。



その後、久しぶりに実家に立ち寄り、
母と話す。
本当に久しぶりだった。

浜松に住む、義兄の父が、昨日ガンで亡くなったという。

以前に義兄の父がガンの手術をした時、元気だったうちの父は色々と励ましたそうだ。
3年前に父が意識を失った時、義兄の父は、逆にとても心配してくれた。
そして、父が長くベッドの上に寝ている間に、義兄の父は先に逝ってしまった。


父が3年間寝ている間に、
周囲がどんどん変わっていく。

| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
連休の病室
ここのところ、更新頻度が落ちておりまして、すいません。

更新しないうちに、GWが終わってしまいました。
実に天気の良いGWでした。

GWの最後の二日間は、久しぶりに家族四人で埼玉県の病院に父に会いに行ってきました。

土曜日は快晴。
開けた窓から病室に、乾いた風が吹き込んでいました。
日曜日は雨。
締め切った病室の中に、湿気がおむつの匂いを閉じ込めていました。
父もやはり、晴れた日には気持ちがいいだろうな、と思いました。


父が倒れた時はまだ生後二ヶ月にもなっていなかった息子が、父の手をなぜながら、
「じいじ、ねんねしてるね」
「じいじにバイバイするよ」
と言うようになりました。

父が倒れた時はまだ幼稚園の年少組だった娘が、
小学校二年生になりました。

父が目が覚めたら、彼らの成長を見てさぞかし驚くだろう、と思いつつ、
でも、実は世の中で起こっていることも、家族に起こっていることも、
全部知っているのかもしれないな、とも思います。

ほんの時々、そんな目をすることがあるので。



実家は畳を張り替えたばかりでした。
倒れる前に父が、「そろそろ畳とふすまを張り替えよう」と言っていたとのことでした。

ふすまも間もなく張り替えるということだったので、
ふすま一面にこども達と絵を描きました。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(2) | trackbacks(0) |
父 71回目の誕生日
本日、父の71回目の誕生日。

68歳で倒れて、その二日後に手術後の昏睡の中、69歳の誕生日を迎えた。
それから、二度目の誕生日。

最初の一ヶ月、極めてゆっくりだった時間の歩みが、
それ以降は、矢のように飛び去るようになった。

倒れる直前の父が、デニムのシャツを欲しがっていたことを、
母は思い出したのだという。
だから、それを、誕生日プレゼントとしてあげるつもりだと言った。

親父、誕生日おめでとう。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(3) | trackbacks(0) |
「理想の死」と「尊厳死」
自分にとって、「理想の死」とはどんなものだろうか、とよく考える。

病院ではなく、自宅で
苦しむことなく、安寧に、
独りでなく、愛する人々に囲まれた死。
おそらく、そうしたものが、「理想の死」なのだろう。

言うまでもなく、ほとんどの人は、それとはかけ離れた死を得、
確率論的に、僕もそうなる可能性は、やはり高い。



「戦艦武蔵」著者の作家・吉村昭氏が、
先日亡くなった。
体に付けられたチューブを、自ら引き抜いての死を、
奥様は、「自決」と表現していた。
吉村昭氏にとって、チューブにつながれた生は、
生ではなかったのだろう。



今日、父の手術が成功した。
点滴の代わりに、鎖骨のところにチューブを埋め込む手術。

点滴の針が入らなければ、体調を崩した時に手の施しようがなくなる。
医師は、
「点滴の針が入らなくなったのをきっかけとして、もう諦めるのもひとつの考え方だ」
というようなことを言ったらしい。

しかし、我々家族は、手術をしてもらうことを選択した。
これが父の意思と合致しているかどうかは、誰にも分からない。


二年前に、父が倒れた時、
「手術をすれば一命を取り留めることはできるかもしれません。
しかし、植物状態になる可能性は高くなります」
と医師から言われた。

家族の前に存在した選択肢は、ふたつだけ。
手術をするか
手術をしないか

母の頭には、元気だったころに父が言ったという
「チューブにつながれて植物状態で生きてても、生きてる甲斐はないよ」
という言葉が、重々しく、あった。

それでも、「手術をする」を選んだ我々家族は、
医師の警告どおりの結果を、二年間にわたって受け入れている。

あんなに饒舌だった父は、
何も言えぬようになってからも、
胃から血を流しながら、
懸命に生きようとしている。

治療の中止に「尊厳」ありて、
生きようとする父に、「尊厳」なきとは、
今の僕には、やはり思えない。

元気だった頃の、「仮定」に基づく意志と、
実際に「現実」に直面した時の意志が、
常に等しいと考えるのは、
現実を知らぬ我々の傲慢だと思うのだ。


自分にとって、「理想の死」とは、何だろうか、と考える。

父にとって、「生」とは、「死」とは、何だろうか、と考える。
気持ちを伝えてくれれば、どんなによいか、と考える。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(4) | trackbacks(1) |
父の日常
久しぶりに時間ができたので、午前中、埼玉県幸手市の病院に父を見舞う。

いつもどおりの父。

表情も手足の様子も、すっかり落ち着いている。
褥創も癒えた。
当初違和感を感じた表情にも、手足の細さにも、慣れた。
頭蓋の陥没も、もはやあるべくしてそこにあるように見える。

でも、どこも、ぴくりとも動かない。
一年八ヶ月もつづいている状態だ。
かくも長き間、このままの状態だということが、にわかに信じられない。


同じ病室にいた入院患者が、今日亡くなっていた。
一人ずつ、順番に、いなくなっていく。


毎日、病室の窓から日が昇り、そして沈む。
病室は明るくなり、そして暗くなる。
父は、痰を吸引してもらい、体位を変換してもらい、風呂に入れてもらい、胃ろうからチューブで栄養を入れてもらい、そして眠る。

毎日繰り返される、父の日常。
かつてロジカルで、ユーモラスで、あんなにも活動的だった、父の日常。

その日常に寄り添う母。
その日常から離れいる自分。

少しく感じる良心の呵責。

日常に寄り添う母は、今や穏やかなる静かなる終わりをのみ願う。



病院の近くで母と昼食をとり、都心のオフィスに戻ったのは午後四時前だった。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(4) | trackbacks(0) |
日にち薬
本の「あとがき」に書いていたとおり、出来上がった本を父に見せるために入院中の病院へと向かう。

妻と娘と息子も連れて。

できあがった本の表紙を見て、父は喜んでくれただろうか。


病室の様子は変わらず。
ほとんどの時間、父は平和な表情で、寝息をたてていた。


一昨年の10月15日に父が倒れてから、今日でちょうど一年半。
父が倒れた時、医師である叔父から「こういう病気は”日にち薬”だから」と励ましてもらった。

しかし、一時は右肩上がりに改善するように見えた病状は、やがて逆に下がり、そして極めて低い位置で、長く安定してしまった。
看護婦によれば、もはや「悪くなることはあっても、良くなることはない」そうだ。


一方で、家族の心の状態は、確実に”日にち薬”によって変化している。

涙と繰言に満たされていた母の生活からそれらは徐々に減っていき、時に笑い声も混じるようになった。
考えられなかった未来も、今では少しだけ考えられる。


ここ数日、母の夢に父が出てくるのだという。
長い間なかったことだという。

母は、そのことの意味をずっと考えているようだった。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(3) | trackbacks(0) |
病室にて
陽だまりの病室へ、父を見舞う。


一年三ヶ月もの間モノを握らぬ手の平は、まるで赤子のよう。

その手を握り、話す。
孫のこと、
映画のこと、
船のこと、
仕事のこと。

モノローグ形式のダイアログ。

父は、半眼のその眼を左右に動かして、
やがて重力に負ける。

力及ばぬ僕は、理解の証左を見つけようとして、
どうしても見つけられない。



父のベッドの向かい側。
先日、娘とあや取りで遊んでくれたじいさんは、
静かに静かに寝息をたてる。
ただ眠っているかと思えばさにあらず。
先日、急に周囲に対して怒りだし、
鎮静剤を打たれているのだと聞いた。
見舞いに来る家族は一人もいないというじいさん。
鎮静剤に反対してくれる人もいなかったのか。


いつも、「痛い!痛い!」と家族や看護婦に不平をぶつけていた少年。
「男のくせに情けない」と思っていた僕は、
彼が癌で亡くなったのだと聞いて、激しくそれを後悔する。
僕の人生で経験したことがないくらいに、
きっと彼は痛かったのだろう。
何も分からずにあんなことを思ってごめんなさい、と思う。


父のベッドのの左隣。
ずっといびきをかきつづけていた老人。
「もう帰るよ。帰るからね」
と30分近く言い続けて、ようやく奥さんは帰る。
「元気に働いていたのに、急にこうなっちゃった」
「橋口さんは目が開いているから、きっと分かってますよ」
「うちのは目さえ開けてくれないから・・・」
限りなく希望薄れし病室で、
病状を相対化してしまう哀しさ。
相手をつい羨んでしまう、哀しさ。



真っ白な、明るい病室。
温かく、穏やかな空気。

長い時間と、無数の想いを抱え込んで尚、
明るく、穏やかな、陽だまりの病室。
| 橋口寛 | 看病日誌 | 23:59 | comments(6) | trackbacks(0) |
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