後日乗

ごにちじゃう Life After Tuck in Tokyo

米国Dartmouth College, Tuck SchoolでMBAを取る過程を
365日x2年余すところなく記した「ダートマス日乗」
帰国後 東京における日々を「後日乗」として 再び記す
(副題としてはあまりに長い)
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田沼たかしのこと
田沼たかしはアクセンチュア戦略グループ時代の同僚だった。
 当時はあまり彼のことをよく知らず、「田沼君というのは歌がうまいらしいね」(彼は長年合唱をやっている)というくらいの認識しかなかった(笑)。

彼と深く付き合うようになったのは、お互いにアクセンチュアを退職してから。 
当時彼は千葉県議選に立候補して落選し、浪人生活を送っていた。

一言で「浪人生活」といっても、言葉に言い尽くせない労苦があったことと思う。
東大を出て戦略コンサルタントとして高給をもらっていたのはずなのに、それをすべて捨てて浪人生活に入っていた彼は、出会ったころいつも同じ古ぼけた黒いダウンを着て、眼だけはきらきらと日本の未来について先人への感謝について熱く語っていたなあ、と思い出す。


その後、彼とは数えきれないくらい一緒に飲んだ。
何度も朝まで飲んで、語り、泣き、笑い、バカをやった。
一緒に知覧にも旅をした。

千葉市議の補欠戦に初当選した瞬間は、彼の事務所で一緒に万歳を三唱した。
そして、何の組織的後ろ盾も持たない彼が、次の市議選では見事にトップ当選をした。
有権者というのは実は普段の政治活動をよく見ているものだ、ということを感じた。

その彼がいよいよ維新の会から国政に挑戦する。

一般的に維新の会は飛ぶ鳥を落とす勢いと思われているかもしれないが、組織はまだまだぜい弱で資金力も既存の政党に比べたら微々たるものだ。
報道されているとおり、すべての選挙資金は候補者の自腹とされているくらいだ。

千葉一区は、千葉県のセンターピンとされる最も重要な選挙区である。
民主党現職に加え、自民党、みんなの党などの公認が正面からぶつかり合う。
みんなの党と維新の調整は結局つかなかった
無党派層の票は分かれることになるだろう。
見通しに楽観できる要素は極めて少ない。 

この戦いに敗れれば、ご高齢の両親(いつも深夜まで一緒に事務所で仕事をされている)と、9カ月の赤ん坊を抱える奥様(同じく深夜までいつも仕事をされている)を抱えて、またあの苦しい浪人生活に 戻ることになる。 

自らの身の保身を考えれば、トップ当選をしている千葉市議にそのまま留まり「まだ今ではない」「時を待つ」などという理由をつけることはいくらでもできただろう。
今回の千葉一区の状況、各種のリスクを考えれば、そうしたほうがはるかに「賢い」選択だったろう。

でも、田沼たかしは立った。 

事務所開きのスピーチで、「日本の未来を担うこどもたちのために・・・」と言った田沼は、しばらく絶句した。

彼はおそらく

   身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

と詠んだ吉田松陰先生と同じような気持ちであろう。

準備期間は足りず、組織力は弱く、資金も足りない。

しかし、絶対に彼を討ち死にさせるわけにはいかない。 

どこかの集団の利益代表などではなく、自らの保身を一切考えることなく、たとえ我が身は野辺に朽ち果てようとも、未来のために完全に”無私”の存在となって戦うことができるかどうか。 
今の日本に必要なのはそういう政治家だ。 

それはもはや「資質」などという言葉を超えた何か、その人物がこの世に生まれた「意味」とでもいうべきものである。

田沼たかしにはそれがある。
私は、そう断言する。


| 橋口寛 | 日本 | 11:31 | comments(4) | trackbacks(0) |
日本という国
元日にポストに届いていた雑誌「致知」の2月号。
いつも素晴らしい記事を取り上げている同誌の今号の特集は、
「富国有徳への道」。

その中で、かつて、日本を訪れた外国人の日本観が紹介されいた。

この国の人々は今まで発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじる。大部分の人は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しいことを不名誉とは思わない。
〜1549年にキリスト教布教のために来日したフランシスコ・ザビエルが本国に送った手紙より〜
ヨーロッパの国の多くや、ところによっては我が国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないにしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない。
〜イギリス人女性旅行家イザベラ・バードが、明治11年に来日し、北海道・東北を旅行して〜
彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これが人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれのほかの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
〜1856(安政3)年に、修好条約を結ぶために来日したハリス提督が、日記に記す〜
私はすべての持ち物を、ささやかなお金も含めて、鍵をかけずにおいておいたが、一度たりともなくなったことはなかった。
〜1890年(明治23年)に来日したドイツ人宣教師の記録〜
日本は貧しい。しかし、高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。
〜フランスの詩人であり元駐日大使のポール・クローデルが昭和18年にパリで〜


共通して語られるのは、日本人の高い精神性・高潔性。
金銭的な富よりも精神的な名誉を重んじる、武士道的な生き方。
幸福そうで、明るく、騙さず、悪意なく、卑怯を排し、礼節を知る人々。
勤勉で、正直で、親切で、謙虚で、感謝を知る人々。
それを、カミーユ・クローデルの弟ポール・クローデルは、「高貴」と呼んだ。

我々日本人は、彼ら外国人が直接接した数代〜十数代前の日本人の持つ徳目を、確かに受け継いでいる。
その一方で、我々の受け継いできた徳目は、主として大東亜戦争後に、
アメリカを中心とする国から流入した価値観により、急速に薄められつつある。
金銭的富への過度の偏重、名誉の軽視、卑怯の跋扈。

そのことに危機感を覚える世代による、
日本人の徳目を我が手に取り戻そうとする動きを昨年来しばしば感じるが、
現状では、多勢に無勢であることは否めない。

しかし、
同誌には、安岡正篤による以下の言葉も取り上げられていた。
人々が己れひとりを無力なもの、ごまめの歯ぎしりと思わず、如何に自分の存在が些細なものであっても、それは悉く人々、社会に関連していることを体認して、まず自らを良くし、また自らの周囲を良くし、荒涼たる世間の砂漠の一隅に緑のオアシスをつくることである。
家庭に良い家風をつくり、職場に良い気風をつくれないような人間が集まって、どうして幸福な人類を実現できましょうか。

まずは、自分と自分の周囲から、だ。
美しき日本の徳目を取り戻そう。
しっかりとした挨拶をし、年長者を敬い、父母に孝行し、靴を揃え、弱者をいたわり、強者にへつらわず、言うべきことを言い、すべてのものごとに感謝し、他人に責任を転嫁せず、すべての原因は己が生み出していることを知り、明るく、掃除をし、陰徳を積み、卑怯をなさず、人を愛そう。

自分に起きるすべての出来事は、自分自身が生み出している。



追伸:
この種の外国人による日本評の中で、よく取り上げられるアインシュタインによる言葉(アインシュタインの予言)は、どうやら後世の創作であるらしいので、注意が必要。
| 橋口寛 | 日本 | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
知覧訪問顛末記: その2
二日目: 12月8日


0745
起床。ややアルコールが残っているかと心配したが、幸い二日酔はなし。

0800
一階食堂で朝食をとる。皆集まってくる。
朝食もまた美味なり。鹿児島の食はうまい。

0850
部屋の蒲団をたたみ、パッキングをして、一階フロントにてチェックアウト。
荷物をフロント脇に預けて外に出る。

建物前にて、「志士の会」の看板を脇に置いて、記念撮影。宿のおばさんに撮影してもらう。かなり愉快なキャラクター。お魚くわえたどらネコを裸足で追いかけそうな彼女のことを、我々は「サザエさん」と命名。

0930
平和会館の「隼」前で記念撮影をし、開館直後より特攻平和会館へ。


↑「隼」前にて記念撮影。

入り口のビデオで既に涙。その後、1200までおのおの会場内に散開して、展示を見ていく。

遺書・遺品が多すぎて、とても3時間では見きれない。引き出しの中に入っている遺品は、なかなか見ることができない。二度目の訪問であるが、まったく新たな気持ちである。遺書を読むほどに涙が溢れる。
「お母さん、お母さん、お母さん」
と強い筆跡で書かれてある遺書。
「野辺の花 召し出だされて 桜かな」
の達筆なる俳句。

間違いなく、一級の頭脳であり、知識見識胆力をもった方々であったことが分かる。
また、顔写真の笑顔の実に清らかでかげりのないこと。
それでいて、今の年齢感覚に10歳以上付け加えねばらないほどに成熟していること。
これについては、今回も非常に印象に残る。

1200
海中から引き上げられた零戦の前で集合。
一旦会館の外へ出る。外は雨。

〜1230
復元された三角兵舎、特攻観音、護国神社へ。
その後、さくら館へ戻り、昼食を取る。
知覧膳。これも極めて美味。

1330
Kさんのご自宅へ、車に乗り込んで向かう。8人乗りのワンボックスカーに、助手席はKさんのために空けておき、9人の男が乗り込む。
フォーメーションは、1−4−3−1.ワントップの運転手は熊野氏。最後のスイーパー「1」は、荷台だ(N氏)。Kさんは自宅ガレージに、ゴム長靴を履いて待っていてくれる。

「昨日は飲んだ?」とKさん。
「ええ、ちょっとだけ」と誰か。ちょっと?
「昨日は良く寝た?」とKさん。
「ええ、まあ」と誰か。全員睡眠4時間半のはずだが。
「私は、昨日は興奮して眠れなかったよ。久しぶりに当時のことを色々と思い出したから」とKさん。

1400
Kさんの案内で、まずは「給水棟」「防火用水跡」「正門跡」などをまわる。その後、飛行場跡へ向かう。
飛行場跡は、今は一面の田んぼ。しかし、当時の面影が明らかに残っている。山影は、写真で見たとおり。
戦闘指揮所跡にて、車を降り、周囲を見回す。万感迫る。


↑戦闘指揮所跡から滑走路跡を眺める

ここで「海ゆかば」と斉唱しよう、となったが、Kさんより一言。
「それなら、三角兵舎跡に行きなさい。あそこは出撃の直前まで過ごしていた場所で、魂が残っているから。慰霊祭も行う場所だから。」
そこで再び車に乗り込み、三角兵舎跡へ。

1410
三角兵舎跡は、杉林の中の階段を上った先にある。杉林は戦後に植えられたとのこと。当時は、松林だった。まず、当時洗い物などをしたという小川などを見学して、三角兵舎跡へ。


↑当時洗い物などをした小川のあたり

階段を一歩一歩上るごとに、特別な場所に近づいている、という感を抱く。

階段を上りきって、やや杉林が開けた場所に、石碑が立っていた。「三角兵舎の跡」の文字。何とも神々しい場所。明らかに特別な場所。計画したわけではないのに、我々はここにやってきた。ここに導かれた、と思う。一同、ただ言葉なし。


↑三角兵舎跡の石碑

「出撃の直前までここにおらしたんですよ」とKさん。
熊野氏がタバコに火をつけ、石碑の前にそれを献じる。

しばし、それを見つめ、やがて傘をたたんで、「海ゆかば」を斉唱する。
降りしきる雨の音とシンクロしながら、柿沼氏のハーモニカが流れる。
つづいて田沼氏の太く力強い独唱。
そして全員の斉唱。
Kさんも斉唱している。

歌いながら、胸が詰まるような思いを感じていた。英霊たちは何を思い、ここから出撃されたのだろうか。今我々が立っているこの場所で、あの美しき顔をした若者達が、明日の帰らぬ出撃を前に起居していたのだ。

ここで「海ゆかば」が歌われたこともあったろう。今と同じ、雨音だけが響いていたこともあったろう。
同じ歌が、同じ場所で歌われている。当時15歳の乙女だったKさんが79歳となってここにいる。

英霊とは一見縁もゆかりもない我々現代の三十代の男たちが、懸命にハーモニカを吹き、歌を歌っている。いわゆる「霊感」のまったくない私にも、ここが特別な場所であり、今特別なことがおきていることだけは分かる。何者かに見守られている感を、強い確信をもって感じる。

最後の「かえり見はせじ」が長く尾を引いて終わった。雨音だけが聞こえる。しばらく身じろぎもせず、石碑の「三角兵舎の跡」という文字を見つめていた。

一礼をしたのち、Kさんが、口を開いた。
「ここまで来れてよかったですね」
「皆さんのような若者が来てくれて(英霊も)喜んでいるでしょう」
そうであれば、どれだけ良いだろう。英霊に感謝の意を表し、御霊をお慰めするために、そのために来たのだから。

最後に、石碑に向かって手を合わせた。
護国神社で、特攻観音で、さまざまなことを心の中で語りかけてきた。なのに、ここではたったひとつの言葉しか出てこない。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、、、、、」
ひたすらそればかりが溢れて出てきた。
失礼なことに、「ございます」をつけることさえできなかった。ただ、「ありがとう」だけが奔流のように溢れ出てきた。言おうと思って言ったのではない。本当にあふれ出てきたのだ。今まで感じたことのない不思議な経験だった。

ここだったのだ。我々が来る場所は。ここに来るために導かれていたのだ。

一歩一歩三角兵舎跡を離れる。本当に離れがたい気持ちがする。
次に英霊の皆さんにここで会えるのはいつか。でも必ず来ると確信している。
また必ず来ます。ありがとう。


1445
階段を下りたところで、全員でKさんと1対1で記念撮影。「なんだか有名人みたいね」と笑う彼女。本当にチャーミングだ。手がやわらかい。自分のおばあちゃん、もといおばちゃんのように思える。井川氏が独身であることを、またも気にかけている。
この人とも会うべくして会ったのだな、と思う。

1450
再びぎゅうぎゅう詰めで車に乗り込み、車で飛行場跡地をゆっくりと流す。
戦闘指揮所跡を通る。この前を多くの特攻機が通過していったのだ、と思う。

後部荷台に乗った柿沼氏がハーモニカで「海ゆかば」を奏でる。つづいて田沼氏の独唱。そして全員の斉唱がつづく。車の中なので、先ほどよりも抑えた歌声。Kさんも助手席で歌っている。
こらえきれず、メガネを外して涙を拭っている。運転席の熊野氏も泣いている。運転大丈夫か?と少しだけ思う。

車はお別れを惜しむようにゆっくりゆっくりと走る。全員の斉唱が終わって、柿沼氏のハーモニカがもう一度流れる。ハーモニカが「かえり見はせじ」を奏で終えたところで、Kさんの自宅へちょうど到着した。

1500
Kさんの自宅でお別れ。皆で車を降りて、握手を交わす。
「またおいでよ」
「あんたたちみたいな若者に会えて嬉しかった」
とKさん。
実に別れがたし。再会を約して分かれる。

1500〜
再び平和会館へ。

受付を通ったところにいるおばちゃんが、
「あれまあ。また来たの?」と笑う。
「朝一番に来たからよく覚えてるよ。感心だねえ」と。
朝100円で借りたガイドレシーバーを無料で貸してくれる。
「あんたたち、どういう集団?」とおばちゃん。
「東京から来た志士の集まりです」と僕。
「まあ、志士!」とおばちゃん。

いろいろと地図などをくれる。三角兵舎跡に行ってきたんですよ、と言うと、「あんなところまで、よく行けたねえ」と驚いている。Kさんにつれていってもらったと言うと、「ああ、それなら納得。良かったね」とおばちゃん。
「あんたたちみたいな若者がいて嬉しいよ。ちょっと待っててね。私より詳しい人に説明頼んでみるから」と、受付を離れてどこかへ行く。(結局修学旅行生の予約が入っていてそれは無理だった)
知覧のおばちゃんは、皆明るく、そして優しい。

1600に集合することを約束して、皆で時間の許す限り見ていく。
遺書を丹念に読み、あらためて涙が出る。

1600
時間はいくらあっても足りない。終了時間がやってきてしまい、皆で集合。
受付のおばちゃん、また色々と話しかけてくれる。

会館を出て、銅像の前で記念撮影。
いよいよ知覧を離れるときだ。

1630〜
さくら館に戻り、荷物をピックアップ。車に荷物を積み込み、またぎゅうぎゅう詰めで乗り込む。
Kさんがいなくなった代わりに荷物が増えた。今度のフォーメーションは、2−4−3の2トップ。
運転は熊野氏、ナビは田沼氏だ。

一路鹿児島市内に向かって車は向かう。

富屋旅館を越え、武家屋敷を越え、山道に入ったあたりで霧が出始める。あっという間に濃霧の中に突入。ほとんど前が見えない。視界20メートルあるかないか。熊野氏、にわかに無口になる。緊張のドライブ。田沼氏がナビを見ながら、「次に右ゆるやかにカーブ」などと、手ぶりで表示。その様子、まるでWRCのナビのようだ。

男9人+荷物が乗っているので、車が重い。下り坂ではスピードが出る。霧で前が見えないので怖い。
「スピードあんまり出さんでよかよ!」と言うと、
「おめーらが重いんだよ!」と熊野氏。もっともだ。

1700
何とか鹿児島市内に到着。ここで、鹿児島ラーメンの「ざぼんラーメン」に入る。
まったくおなかはすいていないのだが、、、、餃子とラーメンとビール。最高。どんどんビールがなくなる。熊野氏ここでビールを飲み、仲村氏と運転交代することに。

1800
ラーメン屋を出て、みやげ物を買い込む。
ここで、飛行機が取れずに鹿児島でもう一泊する田沼氏と、そのまま仕事で博多に向かうMacと別れる。
良い旅を共にした良い仲間との、万感込めた別れ。またすぐ会えるのだが。

1830
一路鹿児島空港へ向かう。市内に入った瞬間、帰宅ラッシュに巻き込まれる。JALの飛行機は1945発。チェックインは1925まで。ナビの到着予定時刻は1900だが、どんどんその針が進んでいき、あっという間に1915に。にわかに熱い状況になる。余裕はわずか10分。渡邉氏が明らかに無言に。

井川氏と橋口が、ソリューションとして提示する近道に、すべてはまってしまい、貴重な時間をさらにロス。時間だけを使って、振り出しに戻る。

1900
何とか渋滞を抜け出して高速に乗る。空港へ向かう。空港が遠いんだ、また。
なかなか空港表示が出てこず、「これは違うところに向かっているのでは?」という懸念を抱く。

ナビシートの熊野氏は、睡眠不足と先ほどの緊張のドライブの疲れとビールの酔いで爆眠。まったく役に立たない置物と化している。先ほど大活躍だったナビ田沼氏が懐かしい。タヌマ・カムバック!

運転席の仲村氏、自分でレンタカー屋に電話しようとして携帯を取り出し、車蛇行する。危ないって。

レンタカー屋に電話。
「1920頃到着する。ガスも入れられないので現金精算を頼む。飛行機のチェックインは1925まで。即空港へ向かいたいので、送迎の準備をした状態で待たれたし」
レンタカー屋了解。

1920
トヨタレンタリースに若干逆走をしつつピットイン。皆車から飛び出してくる。
熊野氏が事務所で精算しているあいだ、あらかじめ用意されていたレンタカー屋のマイクロバスに皆乗り込む。運転手の女の子がかなりかわいい。

「この旅ではじめて若い女性と話したよね!」と興奮状態の皆が、男子校のような勢いでいじりまくる。「乗り遅れたら一緒にホテルに泊まろう」「俺と話すと妊娠するよ!」と助手席の●川氏。この会社はコンプラ大丈夫だろうか?

「絶対にこいつらを乗り遅れさせたくない」、という女の子の悲愴な決意溢れるドライブで無事に空港着。
最後に残ったN氏が、座席に座ったまま、
「じゃあ、車出してください」と一言。女の子にはもう笑う力が残ってない様子。
無事チェックイン。

飛行機が10分遅れており、何とかお土産まで買う時間があった。柿沼氏、全従業員へ「かるかん饅頭」を大量購入した上で、ざぼん三個パックまで購入。どんだけ荷物増えてるんだ。すごい男である。

1955
10分遅れて飛行機は鹿児島を離れた。離陸した瞬間、眠りに落ちた。

2140
羽田空港で、JAL組の五人(渡邉・N・仲村・柿沼・橋口)で解団式。
ついに、この旅は終わった。

バスの中でN氏と話をしつつ、旅におけるさまざまなシーンが蘇る。
一生心に残るであろう、絶対に忘れられないであろう、素晴らしい旅であった。

思い起こせば、酒場での一言から始まったこのツアー。「忙しいから」「面倒だから」「忘れちゃった」など、酒場でのアイデアが消えていった例は、あまりにも多い。なのに、このツアーはそのまま実現した。素晴らしい仲間。

今になって分かるのは、英霊があの場所へ導いてくれたのだということ。

すべての感謝の気持ちを新たにしつつ、この旅を共にしてくれた仲間に感謝。

知覧で会った皆さん、Kさん、旅館のおばちゃん、平和会館のおばちゃん、また会いましょう。



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以上が、今回の知覧訪問顛末記である。
訪問から帰った勢いでそのまま書き上げたので、
非常に粗い文章であるし、
内部記録用に書いたので、内輪向けの内容になっていること、
ご容赦ください。

今回の旅の目的は、
・英霊への感謝の思いを新たにすること
・御霊をお慰めすること
・この時代に平和な日本に暮らす自らの使命を確かめること
である。

そのあたりの思いについては、またあらためて書きたい。
| 橋口寛 | 日本 | 23:59 | comments(2) | trackbacks(0) |
知覧訪問顛末記: その1
知覧、である。
二年半ぶりの訪問だ。

今回の知覧は、あるきっかけで一堂に会した、
日本を愛する9人の仲間達(題して「志士の会」)と一緒だ。

メンバーは、
・政治家浪人中・田沼氏、
・仕事とルックスが不一致・熊野社長
・どエム・Mac
・精神的支柱・渡邉氏
・真のヘンタイ・柿沼社長
・ウチナンチュー・仲村氏
・独身・井川社長
・謎の男・N氏
・そして私
の9人である。

以下は、今回の強行軍となった知覧訪問を、
記録に残す意味で綴った顛末記である。

非常に長いので興味のある方のみお読みください。

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一日目:12月7日

1400
JR指宿枕崎腺の平川駅に到着。何もない、田舎の駅。鹿児島市内在住の友人S氏の車に乗せてもらい、知覧へ向かう。二年半前にも同じ車に乗せてもらい、家族で知覧に来たことを思い出す。


↑快晴の平川駅

1510
30分弱走って知覧に到着。
特攻平和会館に隣接する「さくら館」にチェックイン。
集合1530であったため、既に多くのメンバーが到着しているかと思いきや、先着は田沼氏のみ。時間内到着は2名のみ。
「遅い!」と思ったが、自分自身の作った「旅のしおり」を見返し、設定スケジュールがそもそも無理であったことに気づく。S氏と田沼氏と三人でさくら館一階でコーヒーを飲む。夕景美しい。
S氏の祖父は、二人とも比島沖で戦死し、叔父は戦闘機乗りで足を負傷していたとのこと。

1620
S氏が帰ったあと、宿のおばさんにお願いして風呂を入れてもらい、一番風呂に入る。幸福至極なり。宿のおばさん方、徹頭徹尾良い人であった。

1700
風呂からあがったところへ、吾らが支柱渡邉氏と仲村氏が同じバスにて到着。いつもと違って渡邉氏の様子がおかしい。体調が悪そうだ。
仲村氏曰く「あまりにエネルギーがなくて、別人かと思った」とのこと。その理由は、夜につまびらかになる。

1720
「昨日から風呂に入っていない」という渡邉氏は入浴し、仲村氏と二人で平和会館脇の護国神社に詣でる。仲村氏、四回の柏手のあと祝詞をあげる。何となく冒しづらい空気あり、一歩下がって待つ。仲村氏の祝詞終了後、二礼二拍手一礼にて。

1750
一階の座敷にある食事会場へ。

1800
Kさん登場。Kさんは、陸軍知覧基地の特攻隊と戦隊(直掩・誘導部隊)のお世話をした知覧高女の「なでしこ隊」のメンバー。

小さなかわいらしいおばあちゃん。挨拶をしているところへレンタカー組登場。熊野氏・Mac・井川氏・N氏・柿沼氏。これで全員揃った。いよいよ、始まりなり。

1805〜
ビデオをセットし、一階の座敷にて、Kさんの話が始まる。
時に激しながら、涙を流し手を震わせながら、話をされる。
印象に残ったことは、下記のような言葉。

・日本は堕落してしまった。成人式などの映像を見ると情けなくてすぐ消す。
あの人たちは何のために死んでいったのかと思う。
あの当時の日本に戻してくださいとは言わないが、10分の1でも戻して欲しい。
・当時のことを思い出すので、本当は話したくない。
東京のA氏(富屋食堂の鳥浜とめさんのお孫さん)が「若い人たちが是非聞きたいというから」と手紙をくれたので引き受けた。
家族も反対する。今日も「忘年会」と言って出てきた。
・戦争は駄目。戦争は絶対やらないで欲しい。
・あの人たちは、本当に清らかだった。

などなど。

一部、
「特攻隊は片道燃料」、「日本軍が韓国や中国で言葉を奪ったりひどいことをした」など、一部戦後教育による誤った知識や伝聞による誤りも散見されたが、それは彼女の存在していた年齢・立場としてやむをえないことと思う。

ところで、
「Kさんと話していると、本当の自分の“おばあちゃん”と話している気になります」
と言ったところ、Kさん、微妙な表情に。そういえばご自身のことを「おばさん」と呼んでおられた。失敗した。

1900
一旦お話が終了し、ビデオ撮影終了。その後、食事が運ばれてくる。食事を取りながら、ひきつづき質疑応答。
正直食事には期待していなかったのだが、これが驚くほど美味。薩摩揚げ、刺身、ごはん、皆うまい。

「皆あまり飲まんとやね?」
という質問に、「ええ、まあ」とMacが答える。どの面さげて・・・。
Kさん、井川氏が独身であることを気にかけている様子。

2000
食事を終え、Kさんへ渡邉代表より感謝のプレゼントを渡す。ひざ掛けなど。「こんなことされたら」と辞退されていたが、最後は受け取っていただいた。皆でKさんを囲んで記念撮影。

「体に気をつけなさい」
「こんな若者と会えてよかった」
「頼みましたよ。託しましたよ」
と繰り返し、帰路につくKさん。
本当にありがたい。
熊野氏・Macが車で送っていく。

2010〜
一階座敷にてそのまま生ビールを注文して飲み。
Kさんを送った熊野氏・Macが帰還。「お土産があります」と二人。明日の「海ゆかば」斉唱にKさんが同行してくださるとのこと。

そのまま座敷で飲む。話題は、渡邉隊長が、なぜかかる体調不良に陥っているのかについて。Macよりジェスチャー交えた詳細なる説明あり。「救急車中での会話」「人型のゲロ」「金網へのアタック」「池袋民家軒先での目覚め」「土曜日の健康診断への同席」などなど・・・・それはひどい・・・・。

2130〜
座敷がクローズになるため、二階に場所を移す。
部屋割りは、201号室(渡邉氏・仲村氏)、203号室(井川氏・Mac・柿沼氏・橋口)、205号室(熊野氏・N氏・田沼氏)。最も声が漏れにくいと思われる、205号室に集合。風呂に入っていなかった人々がまず風呂を浴びる。

〜0200
部屋で焼酎を飲み、薩摩揚げなどをつまみながら、語る。Kさんのお話について。「戦争はいけない」という言葉の受け止め方について、戦争体験とは何かということについて、空襲・原爆投下といったジェノサイドと戦地における戦争との違いについて、などなど。

やがて話題は、日本を中国の脅威から守るために何が必要かという話になり、柿沼氏の決意表明になり、、、、各位の小学校・中学校時代のヤンチャの話になり、、、(以下略)。

気が着いたら0200.最後に「海ゆかば」を斉唱し、解散となる。N氏が、「渡邉さん一言」と振ったところ、渡邉氏より極めて重要な一喝あり。

「我々を英霊は喜んでいただいているでしょうか?「おお、よく来た」と言っていただいているでしょうか?私はそうは思えません。馬鹿話をして笑うのも楽しいですが、東京で話せることは東京でやりませんか。ここは知覧です。今我々が立っているこの土地から英霊が飛び立って行かれたんです。このままの空気で明日を迎えるべきではないと思います。心を清めて明日を迎えませんか」

すべておっしゃるとおり。痛切に反省する。

「これからどうされますか?」と渡邉氏。
明日を睡眠不足で迎えてはならじ、と思った私は「寝ます」と即答。それで各自がそれぞれの部屋で明日に備えて語り、考えることとして、お開きとなった。

0210
部屋に戻って、やはり、特攻観音に参ろうと服を着こんでいると、渡邉氏が部屋に登場。「行きますか」と一言。全員で深夜の知覧へと出ていくこととなる。

0220〜
勝手口より外へ。星空が信じられないほどに美しい。時折流れ星が流れる。英霊が見た星空かくのごとしかと思う。ゆっくりと、平和会館脇にあるグラウンドへと向かう。当時の知覧基地の正門近く。格納庫などがあったあたりにあるグラウンド。

外野の芝生にて、皆で輪になる。渡邉氏より一言。
「67年前の今。我々の先輩たちは何をしていたか分かりますか?大東亜戦争の開戦の日。今まさにこの瞬間。二世代前の先輩たちは、太平洋上にある空母の上にいました。」

皆でその事実に思いを馳せる。轟々たるエンジンの音が聞こえる気がする。通り過ぎる風が、太平洋上の飛行甲板を通る風のように思える。空を見上げる。満点の星空。この空を見上げただろうか。

星空の、宇宙の時間軸の中で、67年間はまるで指呼の間。一瞬である。二世代前の先達と我々は、同じ時間軸の中にいることを思う。
皆で輪になり、手をつなぐ。空を見上げる。
柿沼氏のハーモニカが響く。夜空に流れるハーモニカの調べ。消えそうに震えつつも、しかし、しっかりとした調べ。「歌う政治家」である田沼氏の独唱がそれにつづく。そして9人の斉唱。

  海ゆかば 水漬く屍
  山ゆかば 草むす屍
  大君の 辺にこそ死なめ
  かえり見はせじ

歌声が夜空に溶けていく。67年の時を超えて、つながっている気がたしかにした。

0300
宿に戻り、就寝。長い一日目が終わる。

(二日目につづく)
| 橋口寛 | 日本 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(16) |
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